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執筆者の写真牟田 千代

ピアニスト 重松壮一郎さん

被爆ピアノの演奏や、平和コンサートの企画、被爆者の語り部とのコラボレーション、原爆をテーマにした楽曲「忘れえぬ記憶」の制作など、平和をテーマにした活動も積極的に行っている、ピアニスト 重松壮一郎さんにお話を伺いました。
去年の夏、聞き手の私が山の中の滝の近くのカフェであった、彼のピアノコンサートに行った時。重松さんのピアノから、"私は生きている"事を思い出しました。その時に新しいアルバムを出されていて、その中の一曲に広島の曲がありました。重松さんも、私も戦争を経験していない世代同士で、また同じ歳の娘がいるので、お話を伺いたいと思いました。


2024.7.6
この日、インタビューをする前に長崎県佐世保市城間町にある無窮洞(むきゅうどう)という場所と、長崎県東彼杵郡川棚町の片島魚雷試験発射場後を散策しました。
この2カ所は戦時中に造られた所です。(以下の写真は片島の魚雷試験発射場跡にて)





牟田(以下;M)無窮洞と魚雷発射試験場跡に行ったのは初めてだそうですが、どうでしたか?
重松(以下;S)身近にこんな場所があるのだから、もっと行かなくちゃと思いました。
割と灯台下暗しじゃないけど、広島の人も広島ドームにあえて行かなかったりするのと同じかもしれない。
例えばこの辺の小中学生は見学へ行ったりしないのかな?
M:しますね。川棚の移住者なので、この辺のことはあまり知りません。子どもたちが学校の平和学習から学んできたことから、教えてもらうことが多いです。
小串郷駅があるのは、魚雷発射試験場を作る物資を運ぶために作られたとか、川棚空襲があったことなど娘から聞いたんですよ。



●重松さんの音楽のテーマにしているものはありますか?
S:”命” ”自然との共生” ”平和” この3つが自分のテーマかな。 
M:なぜこのテーマが生まれたんですか?
S:17歳で一旦ピアノは辞めたんだよね。
本当は音大に行きたかったけど、父親に反対されて。反抗期の頃だったから。
それで大学生の頃はバンドをずっとやってたの。卒業後もバンドで食べて行きたかったからフリーターしながらやってたけどそれも解散しちゃって。
その後20代はずっとIT企業でウェブデザイナーの仕事をしてたんだよね。でも会社勤めの時は、生きているのも辛いようなストレス状態だった。
そのときまた音楽やりたいと思って、会社行きながら2年くらいジャズピアノ習ったりしてたんだけど、それでもこの日常が限界だと思って、会社を辞めようかと迷っていた頃に、茨城の水戸芸術館で”オノ・ヨーコ展”をやっていて、今の妻と観に行ったんだけど、その時に背中押された気がして。
それで、仕事をスパッと辞めて、残りの人生は本当にやりたかった音楽をやる人生に変えることにしたんだよね。
ちょうどその時に”環境問題”も自分の中では大きなことになっていて。地球が破壊されていくのに、今まで会社勤めしていた自分はなんの役にもたっていないんじゃないかと思ってたしね。それで音楽で環境問題の役に立てないかと考えていた時、鍵盤ハーモニカを持って沖縄の森に行ったんだよね。森の中で、即興で吹いていた時に、鳥の声とか森の音がしてきて、そこから音が自然と音が出てきて。
この音楽は森のお陰で生まれたし、自分はこの自然のお陰で生かされている。
もらって、生まれて、またそれを森に返す。音楽と自然がそこに共生する。
また、聴くひとは、自然があって、音楽が響いて、そこに自分がいて、そこで共鳴し合う。
この世の中の環境破壊は、人間が作り出しているものだから、人間の心の中に緑が芽生えるような音楽。
そういうのが自分の中で固まってきた。

●アルバム『beyond』の中に原爆をテーマにした曲『忘れえぬ記憶』がありますよね?
S:この曲ができたのはわりと最近なんだけど。
ピアノやって今年20年になるけど、前から被爆ピアノのコンサート出たり、広島で演奏させてもらってたんだよね。のりへいくん(詩人、稲尾教彦さん)の詩の朗読と一緒に企画をしたりもしていたの。
M:被爆ピアノとはなんですか?
S:被爆したピアノが燃えずに残っていて、それを調律師さんたちが弾けるように修復したピアノで、たしか日本に10台くらいあるんだよね。僕が知っている中で、広島に、8台ある。長崎も、長崎の平和資料館の倉庫に眠っているらしいんだけど、出してくれば良いのにね。広島には、原爆ピアノを活用しようとしている調律師さんがいて、貸し出していたりするの。
そういう調律師さんと仲が良かったり、広島の人でそういうことに取り組んでいる人たちから演奏する機会をあたえていただいたりしているんだよね。

●長崎には小学校の頃から夏休みの原爆の日に登校日があって、平和集会や学習をしたりします。重松さんは、子供のころに、戦争について誰からか聞いたりしたことはありましたか?
S:おじいちゃんは、あまり話したがらなかったけど、『犬を食べた』とか、小学生が喜びそうな話はしてたよ。笑 おじいちゃんはソ連とかにも行っていた医師だったから、けっこう優秀だったんじゃないのかな。
おばあちゃんは、疎開していたらしいから、疎開していた田舎の楽しい話をしていたよ。笑
 
●戦争や平和を身近に感じることがありますか?
S:新聞がすごく好きで、社会的な事にとても興味があって、僕は全部知っておきたいタイプだから、どんなに貧乏な時でも新聞だけは取ってきたの。笑 毎朝30分以上かけて読むよ。
今は特に大きな戦争が起こっているじゃない?常に朝それを見て、そこに触れるのは戦争を日常的に感じているかな。
M:ちなみに私は、今の海外の戦争もお金儲けのために使われていて、今私がお買い物する時に武器などにつながってることを意識したりする時があります。
S:うん。基本は自分にできることをコツコツやる感じかな。原発や戦争に関わっている企業のものは買わないとか、ほんとちっちゃい事だけどね。
そこの夫婦の価値観が合わないと、お買い物する時に夫婦で揉めちゃいそうだよね。笑 そこはうちの妻は大丈夫だねー。笑
M:新聞などを通して考えることはありますか?
S:日本の政府に対してはいろいろあるけどね。笑
M:日本がどんな感じになればいいとおもいます?
S : 理想は、自衛隊を災害救助隊に変えて、戦争関連の事はしない。  敗戦国になってから続いている、米国に従属的になっているものを全部無くす。でもそういう言うと、、、「武力を身につけて、核を持たないと太刀打ち出来ない。真の独立国家にはなれない」みたいな意見が出て来ちゃうよね。でも非武装、非暴力ができれば、それが理想だと思う。僕は理想主義者なんだけど。笑
 
●戦争や平和について問いてみたい人はいますか?
S:やっぱりさっきも言った他界してしまったおじいちゃん。
M:お祖父様にはどういうことを聞きたいですか?
S:うちのおじいちゃんは共産党員で赤旗を取ってた。しかも医師で自分の病院も持っていたらしいんだけど、週1で共産党病院に行っていたという話を、大人になってから母から聞いてね。戦争中に、軍医しながら共産党員だったってどういう状況だったんだろうなって。色々聞きたいよね。
 
●2025年に日本は戦後80年を迎えます。
 今の日本をどう思いますか?
S:今のままだったら、安倍総理大臣が亡くなった時に、国葬になったみたいに80周年が盛大に行われる気がしちゃうよね。「英霊よ永遠に」みたいな。笑
M:ではどう言った形で迎えたいですか?
S:広島とか長崎の原爆の式典みたいに、政府のエゴイスティックな感じはなく本当に慰霊の気持ちと、被爆者の話とか子供の代表のメッセージとか、そんな純粋な気持ちが伝わるものになればいいけど。だけど、変な妙にピースフルなものに行きすぎるのも違うと思う。love and peaceみたいな。笑
M:具体的にどんな要素が欲しいですか?
S:一番今大事なのは、被爆者の方の平均年齢が85歳を越えているし、生きていらっしゃるうちにいかに記憶を受け継いでいくかで。僕らが受け継いで自分の子供の世代に伝えていくことが大事だから、『記憶の継承』みたいのを80周年にもっとやっていかないとと思う。最後の戦争経験者がいなくなっちゃう日が本当に近いわけだから。
M:タイムリミットってあるじゃないですか。それにせまっていたり、もう遅いこともあったのかもと私は思っちゃいます。
S:それは今の政治家も戦争を知らない世代になっているということが大きいのかもね。

●実際経験していない私たち。戦争はどんなものだと思いますか?
S:僕らは普段、”暴力を振るってはいけない、人を殺してはいけない” が当たり前と思ってるけど、それがやっていいことになっちゃう時点でもうひっくり返ってる。そういうものって感じがする。
おかしんだよ。やっぱり、やっちゃいけないことやってんだもん。笑 でもそれを愛する人を守るためとかなっちゃうと、できちゃうのが人間なのかな。

●”仕返し”はどう思いますか?
S:仕返しをしたくなって当然な感情を人間はそもそも持っていると思う。やんない方がいいけど、やりたくなって当然だと思う。だってもし、娘が殺されたら僕は絶対、犯罪者に仕返ししちゃうなと思う。でもきっと後悔するからしないのであって。だからその感情自体は否定しないけど、そこを止めなきゃいけないと思う。
M:想像するだけで葛藤してしまいますね。
S:自分は子供の頃にいじめられたことがあって、いじめっ子に対して仕返ししたい気持ちがあったこともある。
それが実際に行動に出ちゃって、小中学生とか同級生を切りつけるとか事件が起こったりしている。だから起こり得ることだよね。だけど、もし当時の自分がやってたら今の人生はないよね。少年院にいってたかもしれないし。だからやらない方がいいと思う。

●私たちは、実際に戦争を知らない世代ですが、お互いに同じ歳の子供がいますが、彼女達に伝え、守りたいものはありますか?どんな方法?
S:当たり前の大人の役目だと思う。
M:どういうことを伝えたいですが?
S:戦争があったこととか、学校で教科書で習ったりすると思うんだけど、家庭でも話すべきだと思う。今は娘に全然話さないけど、もっと小さな頃は一緒に広島がテーマの絵本を読んだり、結構言葉では伝えたかな。
M:今娘さんはその影響をうけていますか?
S:もうすでに彼女の人格のベースの一つにはなっていると思う。暴力的なことは良くないと解ってくれていると思う。やっぱりそういうことを全然話さない環境で育った子供たちが、大人になって「選挙に行かない」「興味ない」となってしまうのではと、気になってしまうね。

●あなたにとって平和とはなんですか?
基本は自分の心が穏やかであること。

●どうしたら平和になりますか?
人間は絶対攻撃的な部分があると思うから、そこの感情をコントロールするしかないのかな。
〈余談〉
S:新しいガンダムのシリーズのストーリーが、戦争をしないように遺伝子操作をする話なんだよね。
M:どうなるんですか?
S:結局遺伝子操作はしない方がいいで終わった気がする。笑
M:面白いストーリーですね。貴重なお時間をありがとうございました。


ピアニスト 重松壮一郎
昭和48年 6月9日生 51歳 (戦後28年生まれ)

1973年 大阪生まれ、横浜育ち。長崎県佐世保市在住。早稲田大学社会科学部卒。
クラシック、ロック、ジャズなどを経て、即興演奏とオリジナル曲を主体とした独自のスタイルで、全国・海外にて年間150回近いライブを行う「旅の音楽家」。アメリカ、オーストラリア、タイ、イタリア、オランダ、ベルギーなど、海外でも多数公演。
2005年4月、ダライラマ法王14世の熊本への来日記念ドキュメンタリー映像の音楽を、シンガーの川原一紗とともに担当。同年7月、NHK熊本放送局制作のテレビ番組「金曜ライブ」に出演し、生放送で即興演奏など行う。同年7月、オーストラリアのシンガー・ソングライター / 環境活動家アンニャ・ライトが、南米に伝わる物語を歌にした「とべ、クリキンディ~ハチドリの歌」のレコーディングに参加。2011年、3.11東日本大震災チャリティ・アルバム「Artist Action」にも参加。
被爆ピアノの演奏や、平和コンサートの企画、被爆者の語り部とのコラボレーション、原爆をテーマにした楽曲「忘れえぬ記憶」の制作など、平和をテーマにした活動も積極的に行う。読売新聞長崎版の連載記事「明日へ伝える被爆70年」にもインタビューが掲載される。重松壮一郎が即興演奏を行ったラジオ番組「語り継ぐ夏 ~すみてる少年の8月9日~」(2023年9月3日放送・長崎放送。被爆者、故・谷口稜曄さんのお話)が、(公財)放送番組センターが運営する「放送ライブラリー」に保存・公開される。
これまでに、即興演奏とオリジナル曲のCDアルバム、DVD作品、CD付き絵本などを発表。 アルバム「beyond」「tsumugi」シングル「妖精たちのぶとうかい」「わたげ」は、iTunes、Amazon等にて、好評配信中。 2023年1月、10年ぶりとなるソロ・アルバム「beyond」を発表。
” 生きとし生けるものすべてとの交感と調和、祈りの光を灯す閃き、その一音。 二度とないこの今という一瞬一瞬に注がれ、紡がれる、即興の音のいずみ、 光と闇の混交、全身全霊の表現者。”   ~詩人・稲尾教彦 氏の重松さんを表した言葉~

〈聞いた人〉
牟田 千代  昭和59年6月26日生 40歳 (戦後39年生まれ)
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